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わたしが母にするべき、たった一つのこと

ボート生活での子育てが始まって1ヶ月経とうとしていた。わたし達がNAの善意で借りていた停滞場所も期限が過ぎるので、ボートをまたコミュニティーの場所に戻すことになった。
コミュニティーの仲間達はいつもと変わらず、川辺で呑んだくれて騒いでばかりだが、わたし達がボートを停めるのを手伝ってくれたり、娘を見に来てくれたりと仲間意識は強い。
生真面目な母は、川辺で寝そべったり座り込んで雑談している仲間達に深々と頭を下げ、「娘がいつもお世話になっています。」と丁寧に日本語で挨拶し、お土産に買ってきた扇子やタオルなどを差し出している。ホームレスなみの身なりの仲間達もびっくりして立ち上がり、なんだか一緒にお辞儀をしている。
なんなんだか、一体。。。。

わたしの状態といえば、体力的にも精神的にも悪化していくだけだった。旦那とは出会ってから今まで、こんなにケンカしたことはなかった。母はわたし達の怒鳴り声と娘の泣き叫ぶ声ですっかり滅入ってしまい、人一倍おとなしいのに、更に無口になってしまった。
これでコミュニティーに移動して電気も水も制限される生活にはムリがあった。
そこで旦那は育児休暇を1週間早めに取って皆で彼の実家に行くことにした。母もわたし達の結婚式以来旦那の両親に会っていなかったし、旦那の両親にも孫を見せてあげたかった。
せっかく母が日本から来てくれているのだから、途中で湖水地方にでも寄って一泊して行こうかと話していると、貧乏夫婦のわたし達に気を使ってか、母が全額負担するので好きなだけゆっくりしなさいと言ってくれた。

車で6時間の道のり。娘はとにかく泣き続けた。湖水地方も素晴らしかったが、せっかく旅行に来たのに、わたしは気が立ってイライラしてばかりで一日中旦那とケンカばかりして、母のこともほとんど無視し続けた。心配ばかりかけて旅費さえ負担してもらっているのに、素直に母に接することさえできないわたし。。。
そのまま義理の両親に会いに行き、義母は母をとても気遣ってくれた。わたしは機嫌が悪いのを隠していたので、すごく疲れてしまった。
それでも、義理の母が孫が多い分慣れているようで、娘の面倒をよくみてくれたし、ゆっくりとお風呂に浸かったりできたので、皆の気分は少し楽になったようだった。

母が帰国する数日前にボートに戻り、またボート生活が続く。
母は水を節約しながら洗い物をして、ギリギリまでシャワーを浴びるのをためらい、顔もメイク落としで拭くだけなどして、本当に精一杯わたし達の生活を尊重してくれた。
そしてこれでもかと言うぐらいわたしの大好物をたくさん作ってくれた。
母の滞在中、彼女のストレス解消は週に一度旦那に連れて行ってもらうスーパーでの買い物と、日本食品店での買い物だったようだ。その度に週に一回発行される日本人用の無料情報誌をもらってきて、丁寧に目を通していた。
それから毎日、毎日、娘が寝入った顔を本当に愛おしそうにいつまでも見ていた。
母が帰ってしまう。わたしは色んなことを後悔した。そしてそれを埋めるために何を母にしてあげればいいのかさっぱりわからなかった。
それなのにわたしは母が帰る日の朝ですら、泣き続ける娘のあやし方が乱暴だと母を責めて困らせた。実際、ちょっと揺らしていただけなのに、わたしは娘に関することは何もかも心配で不安だったのだ。今思えば、かなり過剰だったと思う。
空港に着き、いよいよ母ともお別れだという時にわたしはやっと母に「酷いことをいっぱい言って、旦那とケンカばかりして心配させてごめん。」と初めて誤った。
母はわたしのおかげで普通の人が体験できないような経験をして、孫に会え、行ってみたかった湖水地方にも行き、旦那の兄弟や両親達に会えて本当に良かった、わたしにはたくさん迷惑をかけただろうけど、来て良かったと言った。
わたしはなぜだか、絶対に泣かないようにした。本当はすごく泣きたかったのに、一生懸命に堪えた。
旦那は別れ際に母にハグをして、「サンキュー、体に気をつけて。」とゆっくり何度か繰り返した。
娘はこんな時ばかり、わたしの腕の中でよく眠っている。
旦那は、わたしと母がキスやハグさえし合わないことにヤキモキしているようだった。
毎回わたしが家族に会ったときも、別れる時も、なんでいっぱいハグをしないのかと不思議がる旦那。。。。
旦那には説明してもわからないのだが、わたし達はハグをしなくてもキスを交わさなくても家族の絆は変わらないのだと分かっているのだ。たとえ、こんな風にぎこちなく別れる時でも。

母がセキュリティーチェックの入り口に向かって行く。成田空港には弟が迎えに行くことになっていたので安心だが、わたしはギリギリまで母が無事に搭乗口までたどり着き、日本行きの飛行機に乗れるか心配した。
母は「大丈夫、大丈夫、あんたこそこれから大変なんだから、しっかりしなさい。」と言ってから静かにゲートの中に入って行く。
姿が見えなくなる直前に母は何を思ったかこちらを振り向き、わたしはすぐそこにいるのに大きく片手を振りながら「ありがとうー!」と言った。そしてそのまま中に入って行ってしまった。
涙がボロボロとこぼれ出た。
わたしは母に色んなことをしてもらい、「ありがとう」さえ言っていなかったのだ。
旦那ですら「サンキュー」って言っていたではないか。
どんなにたくさんの「ごめんなさい」よりも、わたしが母に言わなければいけなかったことは、たった一言「ありがとう」だったのだ。

帰りの車の中でわたしは声を出して泣き続けた。
旦那は娘がおとなしいと思ったら次はわたしかと、どうでもいいことを言った。
母が帰ってしまった。
次に会う時は、もっともっと母を大事にしようと誓った。そして、今度こそはちゃんと「ありがとう」を言いたいと思った。


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泣きやまない娘と母を傷つける娘

産まれてきたその日から娘は15分から30分おきにギャンギャン泣いた。朝も夜も無い。長く寝てくれても1時間。とにかく泣く赤ちゃんだった。
わたしは娘のことや経済的なことを考えて、完全母乳にすることに決めていた。母乳はよく出る。でも娘は産まれてきたばかりのくせに、豪快にゴクゴクとよく飲む。30分くらいはオッパイにくっついて離れない。
オッパイを飲みながら眠ったな、と思ってベットに置くとまたすぐ泣く。今度はなんだろうと考えて、オムツを替え、肌着が痒いのだろうかとか色々と考える。でもなぜこんなに泣くのかさっぱり分からない。さっきオッパイを飲んだばかりなのに、抱き上げると口をパクパクさせて必死でオッパイを探している。
えー、だってさっき飲んだばっかりじゃない。
仕方がないのでまたオッパイをあげる。
もしかして飲み過ぎじゃないの?ネットで調べると3時間置きって書いてるものもあれば、母乳なら好きなだけと書いているのもある。
分からない、分からないけど30分おきにあげるのはどう考えてもよくない気がする。
わたしは寝る暇もほとんどなく、一日中もうろうとしながらオッパイをあげ、オムツを替え、少しウトウトとしてまた娘が泣くので抱っこして、少し寝たかと思ってベットに置くとまた泣き、オッパイをあげ、オムツを替え、というサイクルを一日中やり続ける。
ゆっくり寝る時間もなければ、ご飯を食べる時間もシャワーを浴びる時間もない。
イギリスは出産後、数時間でさっさと家に帰される。ゆっくり休んで体力の回復を待つ余裕などない。
母も旦那も産まれたての赤ちゃんにそうとうビビって、オムツさえ替えられない。お風呂にさえ入れられなければ服さえ着せてあげることもできない。
娘は3800グラムと大きめで産まれてきて、首もそんなにグニャっとしていないしっかりとした赤ちゃんだったが、それでも2人は小さすぎると言って、抱き上げて揺らすのが精一杯のようだった。
その代わり、母は家事を全て担当し、旦那もボートのことは全て受け持ち、買い物、洗濯としてくれるが、一週間分の洗濯物を乾燥機で乾かして持っては来るが、たたんではくれない。大量の衣類を母と一緒にたたむ。
赤ちゃんの衣類や小物も一回の洗濯では間に合わないので、母と一緒に手洗いをする。
そしてこんなに忙しくて疲れていて本当は誰にも会いたくないのに、友人達が次々とお祝いにやって来る。
狭いボートの中で全てが行われるので、わたしは頭がパンクするかと思うほど訳が分からなくなっていた。
この時ほど実家にいたらどれだけ楽だろうかと思わずにはいられなかった。
母は英語が話せない上に、青森の田舎で育ってきた典型的な日本人だ。怖くて一人で買い物に行けなければ、町中を歩くこともできない。東京に出るだけでも緊張するのに、一人でイギリスにやって来ただけでもすごいことなのだ。
ボート生活も、母は文句は言わないまでも、不便なことだらけだった。狭いし、キッチンは小さいし、洗濯機も掃除機もない。シャワー室は狭いし、トイレも水洗ではない。ストーブだってお湯だって指一本でつけることができるわけでもないし、生活用品も最小限に抑えているので必要な物も揃っていない。ネット環境も限られているので気晴らしに日本の動画なども見ることもできないし、周りはわたし以外みんな英語だ。
母にとってキツイ環境なのは分かっていたので、わたしはどうにもできないことがまたストレスになっていた。
旦那は帰って来ても居場所がないのですぐに外に出て行き、わたしはイライラして「用無し!薄情者!」と泣き叫び、旦那は子供が産まれたら性格が変わったなどと言うし、毎日言い争いばかりした。
赤ちゃんの世話が一切できない母にも嫌気がさしてきて、わたしはことあるごとに文句を言ったり、酷いことを言ったりした。そして娘が泣くのはわたしがボートのディーゼルや薪ストーブの煙を妊娠中にたくさん吸ったから、娘になんらかの障害がでたのかもしれないなどど悩んで泣いたりもした。
それでも母はわたしに優しい言葉をかけながらも色んな状況に耐えていた。わたしと旦那が大ゲンカをするたびに心配そうな顔をしながら静かにそこにいた。

季節はもう少しで10月になろうとしていた。夜や朝方肌寒くなる。わたしは薪ストーブをつけるが、火がつくまで長い。娘は泣くし、その間母は娘を抱いてあやしているが泣きやまず、薪が燃えきらないのかストーブから煙がガンガン出てきてボート中に充満するしで、わたしは娘を連れて外に避難しない母にイラっとして酷い言葉を一気に投げつけてしまった。そして少しして母は「外の空気を吸いに行く。」と言っていなくなってしまった。
それからすぐに旦那が帰って来た。その時わたしはギャンギャン泣く娘の横で子供のように泣きじゃくっていた。旦那に、「母に酷いことを言ったら出て行った。」と言うと、旦那はすぐに外に飛び出して母を探しに行ってしまった。
わたしは自分のことが嫌で嫌で仕方がなかった。ボート生活全てを責めた。そしてわたしもボロボロのまま娘を抱いて母を探しに行こうと外に出ると、母が旦那に手を引かれて帰って来た。
旦那はわたしを少し責めたが、ため息を吐いて何かを諦めたように黙って外に出て行ってしまった。わたしは母に何も言えなかった。顔さえも見れなかった。なぜだかわからないが、心の中で「ごめん」と繰り返すだけで言葉にならない。
母はわたしにとって一番の理解者で、どんな時もどんな状況でもわたしは母に素直に色んなことを話してきた。わたしが世界で一番心を許せる存在なのだ。そんな大好きなお母さんをわたしはすごく傷つけている。
母は無理やり笑顔を作りながら「一人でちょっと出るのも悪くないわねえ。」とボソって言ってから、夕食を作り始めた。
ここが日本なら、ここが実家なら。いくら娘が泣いたって旦那は外に出なくてもいいし、父がいて、弟夫婦がいて。母の使い慣れた台所と母がゆっくりと休めるベットがあって、日本のテレビを見ながら気晴らしをして。ゆっくりお風呂に浸かって、もう少しだけでも長く眠れたら。それだけで本当に幸せなのに。
母は残りの2週間の滞在が永遠に続くのではないかと思うぐらい長く感じていただろう。

わたしはその日、母と一言も口をきけないままでいた。
自分がまったく違う自分になったようで訳が分からなかった。大好きな母がすごく遠い誰かに見えて悲しくなった。

次回に続きます。

平和な臨月

イギリスの秋にしては天気が良く暖かい日が続き、これは現実かと疑ってしまうぐらいに平和な日々を送った。
夏の終わりになると、あちこちでバーゲンが始まる。それに便乗して旦那がフローリング材を買って来た。ボートが狭いので余計にお金を使わなくて良かったと言っていたが、細かい値段はおしえてくれなかった。
すごく怪しい。
そして、ベビーベット用にする棚用の板と留め具を買って棚を作り、拾ってきた古い小さなタンスにニスを塗って、赤ちゃんのオムツや服を収納することにした。
わたしはその間、ボートを隅々まで掃除した。タンスに塗った残ったニスを壁に塗ってピカピカにしたりもした。

20150611070227c23.jpg
ベットの足元に作った赤ちゃん用のベットの棚


NAと旦那はエンジンを組み立て終え、ANは逃げたくせに何事もなかったようにやって来て、エンジンの最後の仕上げをしてくれた。
優しいNAは、わたしの母親が来たらボート生活が大変になるだろうからと言って、知り合いに頼んでその人のボート停滞所を1ヶ月だけ借りれることになった。そこには電圧を繋げるところと水道があったので、発電機を使わなくてもいいし、水がなくなることもなかったので、それだけでもすごく助かった。
実際わたしは、母のことをすごく心配していた。母は初めての孫の誕生を心待ちにしていて、どうしても出産に立ち会って、わたしと子供の世話をしたいと言ったのだった。日本で普通に暮らしている母に水も電気も自由に使えない暮らしは大変だと念押ししたが、自分が子供の頃はもっと不便な暮らしを普通にしていたし、産後の世話をする人が必要になるだろうから、ということで、はるばるボート生活をしに来ることになった。
それでもやはり、60代の母にはキツイだろうなあと心配していたところに、NAがまたもや助け舟を出してくれたのだった。
こうして、母がイギリスに到着する前日にボートを移動することになった。
とりあえず、コミュニティーから離れることも、母にとって静かで良いだろうと思った。

母はなぜだかボート生活にすんなりと溶け込んでいた。
初めのうちは母がラウンジで折り畳みベットに寝て、子供が産まれたら夜泣きがうるさくて仕事に行く旦那に差し支えるといけないので、旦那がラウンジで寝ることになった。ちなみに旦那は育児休暇を母が帰った後にとることになっていた。
わたしと母は久しぶりに親子でゆっくりとした日々を過ごす事ができた。二人で赤ちゃんの寝床を準備したり、衣類などを買いに行ったりした。幸い母が日本からすでに買って来たものやもらいものがたくさんあったので、そんなにお金を使わなくてすんだ。
旦那ももちろんだったが、わたしと母は子供が産まれるのが待ちどうしくて、そして楽しくて仕方がなかった。

予定日前日の午後、16時間という格闘の後、無事に女の子の赤ちゃんが産まれた。覚悟していたよりは大変だったとは思っていたが、母曰く、「難産だった。」ということだ。わたしは必死すぎて何もかもどうでも良かったが、一睡もしていない母が「頑張りなさい。」と声をかけている横で、旦那が「まだか〜。」とか「お腹すいた〜。」と言ってタバコばかり吸いに行っていたことだけは、ハッキリと覚えている。。。。

こうしてわたし達のボート生活に新しい家族が加わった。
世界に一つしかない大切な宝物と引き換えに、分かってはいたが、わたし達の生活は180度変わった。そしてこれはまったくの予想外だったのだが、出産と同時にわたしの性格も180度変わってしまったのだった。。。。。

2010年9月末、子育てをしながらのボート生活がついに始まった。

NAと二人きりの航海

旦那とANは朝食もコーヒーだけで済ませ、エンジン作業に取り掛かった。
今まで知らなかったが、NAは癌に侵される前はエンジニアだったと言う。今は喉に穴が開いているのでディーゼルなどの匂いが直接喉に入ってくると危険なので、彼が指導して旦那が作業することになった。
昼過ぎ、やっとオーバーヒートの原因がわかったらしい。やはりいくつかの部品が必要だった。部品を手に入れて直したとしても、最後の仕上げに特別なレンチで全てのナットを調節しなければいけない。とても高価なレンチセットで、所持しているのは、途中でエンジン修理を放り投げていなくなったエンジニアのANの他にいるかいないかだった。結局、その場所でエンジンを直すことは不可能になり、翌日NAのナローボートでわたし達のボートを牽引してもらって移動することになった。
あと3日あれば、余裕でコミュニティーの場所に戻ることができる。わたしは安心と共に、これ以上問題が起こらないことを祈った。
祈ったとたん、また面倒な状況になった。なんで物事すんなりいかないのよっ!って言いたくなる。
夕方、旦那に職場のマネージャーから切羽詰まった声で電話がかかってきた。旦那の勤務先とは別の場所でスタッフが急に足りなくなり、翌朝来てくれないかと頼み込まれたのだ。
旦那、すごく考えて、なんと「OK。」と言ったのだ!
うーん。と、言うことは、旦那は始発の電車で仕事に行き、わたしはNAと一緒にテムズ川を下って戻るってことですよね。。。?
わたしが不安になっている様子を見て旦那は言った。
「NAがボートを運転するんだ。オレ達のボートはくっついてるだけだから、何もしなくていいんだ。乗ってるだけでいいんだ。大丈夫だ。」
いやいや、そうはいかないと思います。絶対に。

翌日、旦那は朝早く出勤して、わたしとNAもすぐに出発した。
広いテムズ川をゆっくりと下る。
NAはさっそくわたしに言った。
「オーブンにトウモロコシがあるから、食え。」
ああ、今日はトウモロコシか。と、言うか、今日もトウモロコシなんだね。。。
わたしとNAはほとんど話をしなかった。彼は話すたびに喉のボタンを押して、できるだけ会話を短縮して話さなければいけないので、なんだか話しかけるのに気が引けた。
NAがボートを操作する横で、わたしはゆっくりとトウモロコシを食べながら景色を眺めていた。
わたし達のボートは隣にくっついていたが、自分のボートには座らず、NAの横に座った。
少しして水門が見えてきた。
水門係が水門を開けてくれるまでボートを岸に寄せて止めておく。だいたいはボートの前に1人立ち、岸が近づいたら岸に飛び降りボートのロープを引く、そして後ろで操縦している人が自分側のロープを持って岸に降りるという感じでボートを止めるのだが、わたし、臨月に入る直前の大きいお腹で下がよく見えない。NAがボートを岸に近づけてくれているのに、怖くて岸までジャンプできない。だって、足元ちゃんと見えなくて、足でも踏み外して川に落ちたら、それで、ボートと岸の間に挟まったりでもしたら。。。
わたしがもたもたしていると、NAが軽くクラクションを鳴らして催促してきた。
だから、ムリだってー!
もー、旦那!何が何もしなくていいよっ!何もしないわけにいかないでしょー。こっちはNAに助けてもらってるんだから、ちょっとはボートが止まりやすいように手助けしたいじゃないの!
実際、わたしのお腹が大きくなってきてから、旦那はわたしにボート作業を一切させなかったのだ。ボートの乗り降りだけでも苦戦することがあるということに気がついてから、旦那はボートを動かす時、1人で全ての作業をやるようになっていた。だから旦那もNAが普通にそうしてくれると思っていたにちがいない。
NAはそこまで頭が回らないので、わたしが普通にロープを持ってジャンプしてくれるものだと思っている。
NAのクラクションがまた鳴り、わたしがロープを持ったまま動けないでいる。ボートは岸からどんどん離れていき、NAがバックしてまたボートを止め直す作業をしなければいけなかった。
ギリギリ岸の近くまで寄せてもらい、やっとのことでわたしはロープを持って岸に降り立った。
怖い、怖いよー。これ、何回やるんだろう。無事にコミュニティーに帰る前に、わたしが無事にお腹の子供を守れるかが心配だ。
水門が開き、わたしはまたボートに飛び乗り、ボートはゆっくりと水門の中に入って行く。
水門係に「ありがとう」と手をあげると、水門係、めずらしく女性だった。彼女は水門を閉めて水を外に流している間、怖い顔でこっちにやって来てNAに言った。
「あなた、彼女は妊娠しているのに何をやらせてるの?川に落ちたらどうするの?ボートぐらい自分で止めてっ!」
なんだか、わたしのためにすごく怒ってくれている。
NAはいつものようにマイペースで喉のボタンを押しながら、自分も障害者で喉に穴が開いているから、水に落ちたらすぐ死ぬのだと言った。
そして、善意で2隻のボートを一緒に動かしているんだから、いちいち怒るな、と言って水門係を追い返した。
わたし、こんなときどうしたらいいんでしょう。。。早くこの水門、通り過ぎたいです。。。
水門係の女性は出がけに、「出産、幸運を祈るわっ!」とわたしに手を振ってくれて、とりあえず気分良くその場を去ることができた。

わたしとNAはまた会話のない航海を続けた。NAは人に何か言われても気にする性格ではないので、さっきのことはなかったかのようになっていた。時々わたしに、キッチンにあるパンを食べろとか、ジュースがあるから飲めとか言ってくれる。
お互い無口だが、居心地は悪くない。
またしばらくして、次の水門が現れた。
わっ!まただ。こ、怖い。
すると、NAがぶっきらぼうに言った。
「ジャマになるから何もするな。ボートは自分1人で止める。」
え?あれ?さっきのこと気にしてたの?
わたしが、大丈夫だから手伝うよと言っても、いらないと彼は言い張った。
あはは、さっきのこと気にしてたんだー。NA、ちょっとおもしろい。
と言うことで、わたしは丸一日、優雅に景色を見ながらボートに揺られることができた。
なあんだ。結局、旦那の言う通り、何もしなくてもいい日になったのか。なんか、良かった。

ボートはなんと、その日のうちにウォルトンまで着いてしまった。
夕方旦那も帰って来て、わたし達はまた翌日出発することにした。今度は旦那も一緒なので、スムーズに事は進んだ。
こうしてNAのおかげでわたし達は無事にコミュニティーの場所にたどり着くことができた。
大冒険の3週間クルーズだった。
ボート仲間達はいつものように平和だ。みんな、とりあえず心配していたと言ってくれた。
どこに行っても、どんな状況でも、慣れたところに戻って来ると気持ちが休まる。
わたし達のボートのエンジンが直るまで、NAも近くにいてくれた。
NA、本当にありがとう。
こうやって仲間がいてくれて本当に良かった。

もう少しで臨月に入る。月日はどんどん流れて行くのだ。
プロフィール

スカイ

Author:スカイ
イギリスで旦那と娘3人でボート暮らしをしていた生い立ちを綴っています。
家賃も地方税も無い自由な生活を選んだはずが、なかなか大変なボート暮らし。大好きなお風呂にゆっくりと浸かることができる生活を毎日のように夢見て、早くボート生活から抜け出したいと思いながら結局7年間を費やしてしまいました。
めちゃくちゃなボート仲間達との暮らしも今はいい思い出です。

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